僕のパラ暦
(前半編)


さて僕の今までに乗ってきたパラグライダーの機体と、フライトログについて書いていきたいと思います。


初チャレンジ

91年11月大佐にて、チャレンジ1日体験コースに行く。そのころは1日体験で1日中体験がありました。
そのころはチャレンジも多くって、今みたいに一人一人懇切丁寧テなことはまったくなく、最初にこうやるんだよ
といったあとはさあドンドン自由にやっちゃってーーーーと言う講習。
もちろん1日で飛べる人は本の一握り、、僕もなかなか飛べませんでした。


最初のマイグライダー


さてそんなこんなで、何回かチャレンジに通い、(飛べるようになるまで3回くらいはやらしてくれた。)
ボチボチ山飛びと言うことになりました。山飛びをするには、マイグライダーがいる、、、
そのころの常識でした。

と言うことでまず最初のグライダあーはアトールα110、、少し大きめの機体でふんわり浮かして飛ぶのがはやり?
と言うことできまったグライダーでした。初飛びは92年6月結構間があいています。ボチボチ飛んでいっていましたが
8月には初めてのソアリング、アーベントで50分、初トップアウト山頂より上がった初めての日でした。


スパイラル

そんなこんなで、調子に乗っていた頃、初めてのスパイラルというのもそのときに試してみた頃があります。
とにかくひきゃあいいんだろ、と簡単に考えて、ぐいっとブレークコードを引き込むと、、、、、
いきなりの回転とすごいG、、、うわーーーっとおもってすぐにブレークを戻したもんだから
すごいお釣りが来て、グライダーつぶれるし、、めっちゃこわかったです。
しばらくはスパイラルなんて絶対するもんか、と心に誓っておりましたっけ、、。
やっぱり少しずつの練習が必要ですよなにごとも。


パイロット証を取る


さて入校して1年が過ぎて93年僕は転勤で今治に、ということで当然僕のフライトエリアも変わることに、、。
紹介してもらったのは吾川スカイパーク、そっちのスクールにも入ってダブルスクールに、、。
そのころは今と違ってA級は撮らずにいきなりB級を取り、その次にパイロットになると言うライセンス。
僕も吾川ではあんまり長時間tは飛べず、トータルで9時間ほどでパイロット証の申請をしてもらいました。
(ちょうどそのころノービスパイロット証が出来て、早く取らないとややこしいと言うことで申請だけは93年度中に
しちゃいました、。だからパイロット証はしばらくは預かりって言うことで、、、、。)
と言うことで僕は、吾川スカイパークとSET大佐の2つのスクールの卒業生と言うことになっています





アクトスーパーエボリューション


1年で今治転勤から今の川上町に再度転勤、また大佐が近くなって、パラ通いが始まりました。
94年7月、アトールの下取りセールで、アクトスーパーエボリューションが安く買えるよ、という甘い言葉に誘われて
衝動的にアクトスーパー買っちゃいました。確か26万くらいだったかな?(アトールを20万で下取りって言うセールだった)
さてこのアクト、、よくとぶんだかなんなんだか、しばらくはがんばってこれで飛んでいました。



岩城島

僕にとって大切なエリアに岩城島がある。そもそもこのエリアに行くきっかけは吾川のスクールに岩城島の人たちが
通っていたと言うこと。そこで知り合って、今度岩城島にもエリアを開発したので飛びにおいでというのが始まりだった。
岩城島の大会はパラワールドでも結構取り上げられているおいしい大会である。
おいしい、、まさに文字道理おいしい、、、料理。
コンペそのものよりも、宴会をするために沢山の人たちが関東やら九州から集まってくる。
僕は自慢ではないがこの岩城島の大会の皆勤賞である。(単に暇なだけ??)今年はできるのかなーー?
ここでもいろいろな人たちと知り合いになった。
そして今度は笠岡芦田川エリアに誘われて行くこととなる。

笠岡エリア

笠岡エリア、今ではほとんどの人が知っていますよね。今あるテイクオフはその時から後数年してできたもので
僕が行き始めた頃は、今のテイクオフよりも右手に50mほどの所にありました。
今でもはげているからわかるかな??
そこのクラブにもはいりーの、大佐にもかよいーの、とパラにのめり込んでいった頃です。
そのころは北房もなかったし、冬場飛べエリアって少なかったし(今でもか、、)
今のように出張スクールなんてしなかったから、大佐の冬ってそれはそれは寂しいものがあったんです。
そして、冬場といわず夏場といわず、フライトが出来るときでも何でも、とにかく笠岡に行ったら
グラハンをする、,えんえんする、ずーーっとする、というのを1年ほどがんばりました。
笠岡、芦田川両エリアとも、一定の風が吹くので、グラハンするには絶好の風。
いろいろな機体も貸してもらってグラハングラハン、これがよかったんだと思います。
とにかくグラハンには自信がつきました。
もちろん狭い空域とか、リッジとかそういう飛び方も笠岡ならではですけどね。


スタチン

今でこそ、えらそうな顔をして、人に練習生とか、言っておりますが、そのころの僕は大変下手でした。
今みたいにグラハンする習慣もなかったし、クロスで何とか出れれば、十分という時代だったこともあるし
飛べりゃーなんだっていいんじゃあにのとも思っておりました。
パイロットも取ったし、ぼちぼちみんないろいろなところに飛びに行くようになりました。
95年の暮れ、というか年末年始にかけて引田町にフライトツアーに行ったときのこと、、、、
引田町はかなり昔からある香川県のエリアで、香川と徳島の県境にあります。11号線をまたいで飛びます。
しかもここはランチャーから飛び出すんですよね。(斜面もあるけど風向きによってはランチャーしか飛べないときがある。)
年末年始のツアーだったんですが、このツアーで、飛び納めとなるはずのフライトがスタチンとなってしまいました。
フロントだったと思いますが、立ち上げて走ろうとしたとき、翼がつぶれ、あとまらなきゃ
と、思ったけれどもそこはランチャー台。一度ついた勢いはなかなか止まれず、もしかしたら半分生き残った翼で
何とかなるかなーーとか考えているうちに、ランチャー台の橋は目の前、あれれれれ
と沈んでいっちゃいました。情けなかった、、、、、、、、、、。

そしてそれから2週間後くらい、今度は山口県の大島にツアーで行かしてもらいました。
風は最高ではなかったものの、みんなぼちぼちぶっ飛ぶという状況。
最後の二人になって、僕が先に出ようとしました。このときは急な斜面で前回のこともあるし
すごいプレッシャーを感じながらのクロスハンド、、、
またやっちまいました。
振り向いて出ようとしたものの左に取られ、斜面左下の松の木めがけて一直線。
大島このときには結局フライトできませんでした。
そしてその時に福田さんにクロスの練習を見てもらい、練習って大切なんだなと
実感し、それから心を入れ替えて立ち上げの練習をするようになりました。
そのころのパイロットの僕と、今のノービス、いやB級と比べても負けてたんだろうなーー、、。


フラットスピン

アクトスーパーは低速が効きます。というか低速そのものがアクトの本領。
低速の時の浮きが妙にいい。ということでフライトするとき、サーマルに入ったとき、低速で
ちっちゃく回るというフライトスタイルを得意にしていました。
どこまで引けるのかな、もっと低速にしてみよう、サーマルヒットしたときに
そう考えてブレークがかなり重いと感じながらフライとしていました。
とその時旋回している方の翼がゆっくりと後ろに進み出し、ヘリコプターのように
くるくる自分を中心に回り出しちゃいました。
沈下速度はほとんど感じなかったし、旋回もゆっくりだったので
あれっと思ってバンザイしていました。(とにかくバンザイしてたら直ると教えられていたし、、)
バンザイしててもゆっくり回り続けます。おかしい??反対のブレークを引いてみる、、、
テンションがない??おかしいおかしい??
そう思っていたら翼が急に滑空始めたのか、前にかぶってバサッとつぶれ、
その後回復したと思ったら地面というよりも山の木がすぐ目の前に、、、、
木の上にランディング(これを一般的に山チンという。)
やっちまいました。


自己最高高度(日本)

標高で僕が一番高く上がったのはやはり大佐で、標高2550m
(もしかしたら吾川で2000mは越えていたかもしれないが、その時にはバリオをもっていなかった。)
1996年の4月の28日のことでした。やはりゴールデンウィーク付近の春のサーマルは強力です。
なにも考えずにとにかくあすなろの上でずーーーーっと回し続けていたら、
いつの間にかそこまで上がっていたという感じ。
その時ハングランに行っていたようだがその時にも高度が2000あったって
言うんだからすごい日だったんでしょうね。今だったらもっと遠くまで
いっていたろうになーーというフライトでした。
このころからやっとスパイラルの練習を始めたようです。
(フライト時間は累計31時間、パラやり始めて5年目のときだから、、、
計算してみりゃ1年で6時間しか飛んでいないや、、、)


シグマ3

さてその頃になると新しい機体がほしくなってきます。
アクトスーパーもその頃にはかなりひどい言われようで

実際にフライトも何でこんなところでつぶれるの?とか、何でこんなに浮かないの?とか
身をもって感じていましたので、物色しておりました。
基本的にはスクールは大佐だったし、今クラブには笠岡に入っているし、、
どこから機体を買うのか?結構板挟み状態で悩み悩み、、、、
そうこうしていたときに、福井さんがシグマ3を売りに出すという話を聞き
こりゃ好都合(どっちにも言い訳が立つし、しかも安い。)ということで
シグマ3に乗り換えました。1996年の9月のことでした。

これがもちろんすばらしい。今でもシグマ3のノリ味は最高にいいと思っています。
立ち上げ、フライト、旋回、ランディング、どれをとってもアクトスーパーとは比べものにならない。
アドバンス信者になった瞬間でした。このとき位からやっと年間のフライト時間が
20時間くらいを越えるようになってきました。
スパイラルもかなり激しいのも入れられるようになり、
直すのもへっちゃらになったのはこのとき位からです。


海外フライト

97年はシグマ3で楽しく飛んで、あとは私生活のほうでいろいろ
という年だったので、ちょっとフライトは控えめに。(98年結婚)

ということで新婚旅行はアドバンスのフライトツアーでした。
機会があれば何度でも行きたい、そう思えるツアーでした。
本ではやっぱり海外は違うとか何とか書いてあるのを見て、
そんなこといってもなかなか行ける分けないじゃん、と思っていましたが
どんなことをしてでも、行ってみる価値はあると実感した次第です。
ツアー参加者はツアコンとして、北さん、長島伸一さん、松永文也さん、斉藤達夫さん(このときは知らなかったけど
バリバリのJリーガーだったんですね。ちょうど新婚旅行でした。)結構すごいメンバー。

フライトしたところは、まずグリンデルワルド。草原の上を松永さんと一緒のサーマルで
(というか松永さんに誘導されて)標高で言うとどのくらいなんだろう?
2000m級の山から飛んでいるのでトップアウトして2400mくらい行った。

インターラーケン、ベルビエ、シャモニー、プランジュと毎日のように飛べ
というか本当に毎日飛んでいました。


そしてその時に感じたこと、、、、
上手い日とは断然上手い、、、、当たり前のことですが僕も大佐でぼちぼち飛べるほうになり
海外でも人が上げているなら僕も上げれるんじゃないかというひそかな自信がありました。
それに、スイスで飛ぶって言うのはそう何度もできるもんではありません。
そういう状況で、上げる人は凄く上げて長時間フライト、そうでない僕達は
そこそこのフライトしかできずに、何がどうしてそんなに違うんだろうと
日本に帰ってきてから本当に凄く悩みました。
(そう、せっかくの海外フライトで悔いの残るフライトというものしかできなかったことに
自分自身がちょっと落ち込んだりしたんですよね。)
僕のパラの2回目の転機でした。
(1回目はスタチンのときね)


ということで、海外フライトから帰ってきてからは、積極的に天気図その他の情報を集め
山に行ってもいろんな状況をしっかり見るようになり、そしてなにより自分自身で
フライトプランをしっかりと考えて、条件その他からどこまで行こうとか、
上手い人がいたらどのように動くか、とかを考えながら飛ぶことを心がけるようになり
やっとある程度今飛んだらどう言う状況になるだろうなという想像道理に
飛べるようになってきました。(今になってやっとね)



シグマ4

シグマ4が出てしばらく、3が気に入っていたので買うのをためらっていましたが99年の2月にシグマ4を購入。
シグマ3が古くなってきていたというのもありますが、よく飛びました。
その頃にはもうスパイラルもガンガンして降ろすというようなことをシグマ3でしていたので
シグ4になれてきた4月頃、スパイラルの練習を大佐でしてみました。
ほとんどぶっ飛びの条件だったので、対地高度が300mほどだったと思います。
シグ3のつもりでグイッとブレークを引き込んで、おーー回りだした回りだした、、
さて直そう、、と思って反対のブレークを引いてみると、、
あれ反応がない、、ない、、ない、、
反対のブレークをぐいぐい引っ張ってると急にスパイラルから回復、
今度は反対側にグライダーがすっ飛んでいき、、、
テンションが抜けた、、。

バシュッという音とともにグライダーはつぶれ回復したと思ったときにはそのまま山の斜面に
突き刺さっておりました。
やっちまった、、、、、、、。

ぎりぎりで翼が開いていたので、もちろん怪我もなく、運が良かったというのか、何というか
あんまり無茶はせんようにしましょう。

ちなみに僕が山チンしたのはこの2回、いざというときエマパラはなかなか
投げれない、というのが実感です。(こんなことではいけないのだろうけど、、)



とりあえずここまでが前半編ということで、このページは終了。
後半変はいつになるかわからないけど、楽しみにして待っててね。
(え、別にみたかないって??まあそういわずに、、、。)



パラグライダーの部屋